7月に入った日ですが、写真が写りが悪いですね。夫婦の写真は無く(残念)価格と説明は同じです。転換中、と書いてありますが、これはハウスを拡大中なので、有機栽培の無農薬・無化学肥料3年間の途中のハウスからも出荷中という意味です。すでに大半は有機なのですが、分けて表示するのが手間がかかるので、すべて転換中にしたようです。
日本農業経営大学校のページに多収のみつひかりの写真も載せたバケツ稲
ようやく固定ページの操作に慣れてきました。今日は、この春から大学校のベランダで始めたわずか二つのバケツ稲の報告を写真とともに載せました。日本農業新聞が全国の小学校等に無料配布しているバケツ稲のセットをもらい、コシヒカリを先ず芽出しさせて5月連休明けにバケツに移しました。
同様に、茨城の親しい農家さんから分けてもらった、三井化学のみつひかり2003をバケツに移し、同様の観察をしています。彼は昨年、この1代雑種(F1)で反収15俵のつもりだったのですが、晩稲の晩稲であるみつひかり、台風が迫っていたので刈り取りを早め13俵半の成果に終わったと。それでもすごい!・・・・・堀口は、コシヒカリは、配布の袋にあった化成肥料はまかず(実は葉が黄色になり、バケツの私の土は栄養不足と判断して、後に一袋入れました・これで有機栽培にはならなくなりました。有機肥料は移植の後は不可)、他方、みつひかりに時期を分けながら化成肥料を3袋入れました。
その様子を今後報告します。
6月に青森県小金崎農場を訪問し、佐々木君夫さんに再会できました。
1991年に深浦でお会いしたときは、賞を受け規模拡大に取り組んでいる真っ最中でした。その時の話が岩木山に大規模な農地の売り物がありどうするか、迷っているとのことでした。その後、結果的に購入し、その時の公庫の融資が大きく、大根の価格が低下したときに資金繰りに苦しんだ・・・という話は風の便りに聞いておりました。
その後、融資返済を延ばしす代わりに経営陣が総入れ替え。佐々木さんもおりました。が、その後、佐々木さんが社長でなければ無理だということで復活、今回色々案内していただいた次第です。今では主力は岩木山の農場を主に、深浦と合わせると500ヘクタール規模を経営。今回は最初の写真にあるように、10年近い耕作放棄地の開墾・利用を依頼され、20-30ヘクタール規模であちこちで開墾され、規模を拡大の途中でした。多くは賃貸借でした。露地野菜など多彩な作物に取り組み、最近では写真に見るように観光農園のさくらんぼも展開しておられました。
時間を作って、経営の歴史をお聞かせいただくことは、経営大学校の学生にも役立つように思いました。再見!
就農教育の日本農業経営大学校の校長になりました。
初代校長の岸さんの後を受け2015年3月12日から日本農業経営大学校の校長になりました。就農を目指す学生を教育する機関で1学年20名の2年間全寮制です。関心のある方は、日本農業経営大学校と検索いただくと、サイトを見ることが出来ます。
この間忙しさが増したので、堀口はこのホームページの更新を怠り、文字の入れ方から今、再勉強中です。
今晩は日本農業経営大学校のページを設けることができたのですが、そこに文字を入れる方法を思い出せず、今回はブログで紹介にとどめます。
この3月に第1期生の卒業を見たばかりであり、全員の就農を祝ったところです。
民主党政権下の事業仕分けで43年間の歴史を持つ農業者大学校が残念ながら廃校になりました。全国で活躍する多くの卒業生は強く反発したのですが、それならばということで、新たな学校へと期待する動きがありました。そして卒業生の思ひや多くの関係者の期待が結実し、民の力で一般社団法人アグリフューチャージャパンが設立され、その下での日本農業経営大学校の開設、ということにようやく漕ぎ着けたわけです。
堀口はその経過を聞いてはおりましたが、実際に関係者の努力は大変なもので、校長になって改めて期待の大きさを知り、責任の重さを感じます。
今後、このサイトを通じていろいろなことを紹介・発信していきたいと思います。
鹿児島県大隅半島は肝付町の船間発電所をようやく探し当てました。
前から行きたかったところでした、落差、なんと205メートル、そのため鉄管は地中だったのです。てっきり崖に出ていると思い、発電所の周りを探し回ったのですが、見つからず。あとから調べたら、急角度なので送水管は直下と横穴で地中で緩やかにしていること、景観にもよいし・・・・・もっとも事業費は高くなったはず。最大出力995キロワットである。この写真にある九州発電は鹿児島県の企業が加わっているが、地元の関係も知りたいところです。
馬口川は、なんと、写真の上に見える道路に平行してさらに離れたところにあり、偶然に堰を見つけました。戦後、この周辺で地元集落の発電があり無灯火の村に電力を供給していたと村の食堂で教わりました。村で映画を見るときは家庭の電燈を制限するほどの電気しかなかったとのことでした。